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「トメライ」による楽描楽音等の創作記録。個人的な考察や作品の感想とかも書くよ。
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もう一個。長い詩。詩なのかこれ。小説?
これもなんか好きなやつ。
でも長いので「つづきから」へ。

アンチスターが点いて終ってたんで、削除してこっちに上げる事にしたんですね。
結局、ピクシブで小説上げても何にもなんないと思った。
まあ、勿論モノによりますけどね。自分でもさすがにコレはなかったなーって思えます。
わけわからないので読まなくてもいいと思います。まあ此処は自分用なので自分用に載せ。

…ていうかアンチスター一個ごときで沈みすぎだぞ、自分。
ただの悪しき自然現象の類でしかないのに。
まあ今の自分では特に沈みがちなのは仕方ない。
成る可く付けられない事を祈る他ない。悪しき自然現象の類は。
幸い、少なくて済んでる。今も昔も。



始めはおもしろくなかった。なにもかも。
始めはただ恐かった。



そしてぼくは今、白い部屋の中にいる。
いつのまにか。気が付くとそこにいたんだ。
今まで気付いていなかったみたいに。
白い部屋はそこにあったようで。

そしてぼくもまた、気付かぬ内に白い部屋にまるで前からずっと居たような錯覚さえ覚えた。
でも実際、この部屋は幻覚や錯覚ではなく、実在している。僕もそれを理解している。
どうしてそんなことがわかるのか。触れるからだ。床に。壁に。天井に。
影があるからだ。手を四方のどこかしらに近付けると影ができるからだ。声も反響する。
僕が接している面、床は特にずっと黒い影ができている。光源は天井にあった。

しばらくぼーっとしているとその黒い影が薄くなっていったように感じた。
気のせいと思いながらも、やがて影は無くなった。気が付いたら無くなっていた。
いつなくなったのか、という明確な判断はつかない。
最後まで気のせい、だと思い込んでいたのだ。
それもそのはず、序序にゆっくりと消えていったからだ。
おそらく、その影をずっと凝視していたとしても、
遅かれ早かれ消えることは免れなかったのだろう。
とにかくぼくは立っている感覚が薄れて来て、
やがて宙に浮いているのではないかという浮遊感におそわれた。
浮遊しているわけではないはずなのだが、少なくとも浮遊感は実感させられた。
浮遊感を得た。でも、気持ち良くはなかった。
やはり実際浮いている訳ではないとわかっていたからだ。事実、重力は感じている。
やがてその重力も消えた(ように思えた)。先程の影と同じようにゆっくりと序序にだ。
そうして本当にぼくは宙に舞っているらしかった。しかし、それもまた気持ちよくはなかった。
いや最初はなかなか興味深い感覚だと思ったがすぐに飽きてしまった(ぼくは決して飽きっぽい性格ではない)。
この空間にはおもしろいと感じる要素があまりに少なすぎて、
臨場感を得るにはあまりに情報が少なすぎたからなのだろう。

白い部屋…白い部屋…あれ、ここは部屋なのだろうか。
歩いてみた。しかし(いつ壁にぶつかってもいいように両腕を前にかざしながら)歩いても、どの四方にも壁に当たらなかった。
声を発してみた。どんなに精一杯に発した声も返ってこなかった。
いやよく考えればその声が"どこまで届いたのか"、
僕自身、"どこまで移動したのか"といった感覚すらもうなかった。
壁が〈消えた〉のであれば距離感も消え失せるのもごく自然だ。
つまり移動感覚は想像にすぎなかったのだ。そう、想像。
実際、僕の脳は僕に歩くように命じ、それを実行してることを想像するのは訳ないことなのだが、
それを確かめる術がないのであれば,―やはり想像の範囲を出ないのである。
この結構歩かないと得られないであろう疲労感も最早想像なのかもしれない。
僕は恐怖を覚えた。それは皮肉にも本物であった。
しかし、それとほぼ同時に僕は此処(という認識も最早曖昧である)で、とあることに気が付いた。
それは、物体が〈消えれ〉ば現象もそれに伴い〈消える〉という事象だ。
そしてその事象を通した感覚すら消えるということ。
そういった理はまだ存在していた。
僕はフと自分の手を見た。
よかった、まだあった、消えていなかった。
次々となにがしかが原因不明に消えていく不可解な事態、
いつか僕自身も消えるのではないかと想像することには容易に行き着く。
そう思っていたのも束の間(といっても時間感覚は既になきにしもあらず)、僕も消えた!
僕はただ、どうすることもできなく、僕も消えたんだ。って思った。
はじめはうろたえもした。だがしばらくすると、うろたえてるかどうかすらわからなくなった。
そう認知する腕、足が消えたからだ。
触れるもの、触られるものもなくなったので触覚も消えた。つまり体が消えた!
自分の視界はどこを見ても自分も何もかも写らず真っ白になった。
そのときはただ四肢を体を動かしてる、筋肉を引っ張っている感覚、―重み、しか得られず、
だからやがてどうしようもなくなってあきらめ時間の経過を感じながら、本当に僕が消えた。
消えたのを待っていたかのように消えた。


始めからおもしろくなかった。なにもかも。
始めから愛おしくなかった。何もかもが。
いらない感覚だと思った。
感動すら邪魔だとさえ思っていた。


(これは白。ここは部屋…仮にもまだ白い部屋としておこう。白…まだ目はあるのか。いや、目が無くても「白」は感じることが可能な色なのかもしれない。色?白 は色なのか?色ではないからこそ感じることができるのではないか?よく考えれば自分で自分の目を直で見る事は通常適わないにしろ、だからといって目だけは残ってる、という思考はただの先入観で幼稚なものだ。なにも写らない、なにも見えない、感知するものがない、つまり物質はない、ということは音はどこからも発することはできない、だから音は聴こえない、だから耳は無い、つまり音は消えたのだ。と行き着くのは仕方が無いかもしれない。それは先入観の極地だ。しかし耳は聴こえないと決めつけて、そのかわり決めつけていない目はまだ見えている、と判断 することはあまりに幼稚というはなし。それさえ無視すれば耳と同様、目が無い、つまりなにもかも無くなったに等しいのだ。やはり最後まで頼って、最後に失う感覚は視覚だったのだ。やがてすべて失った以上、少なくとも、いまのぼくにその事実を覆すわざは持たない。当たり前だ。自分は消えているのだから。感覚器官がないからだ。感覚器官が無いと感知するための感覚器官がないからだ。いや、正確にはある。最もそれは、〈すべて消えた〉を知る方法こそ、どの感覚器官でも感じる事ができない"感覚"だと脳のどこかで"感じた"というのことにすぎない。無いことで有を感じるとは、こんな状況を相まって、滑稽だ。というよりこれは少し興味深いことだ。先程とは逆説になっている。外界からの情報により感覚を得るのが本来だというのに、外界に頼れるものが無くなったことで、感覚から外界への情報を得ようという事象が働いたのだ。事象。脳内の出来事なのに事象だという。いや脳内なのかどうなの か。おそらく脳はとっくにない。いまのぼくは精神でしかない。つまり「ぼく」と「世界」、「感覚」と「現象」が既にとけあってしまったのだ。自分は 完全にこの「白い部屋」の一部となったのだ。(理はまだ存在しているのだろうか))


やがていよいよぼくのなにもかもが消えるだろう。と思うぼく自信も消えるだろう。
そう確信した。もう消えかかっているかもわからない。
消えたのかもしれない。でもそう思っているぼくがまだいるようだ…




だがその前に、ぼくはひらめいたんだ。
この「白い部屋」の一部ならもしかしたらって。

そうだ、青、青を想像しよう。



そして「白い部屋」は青くなった。
ぼくはいまも消えたままだ。
例によって恐くもなにもなかった。

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